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晴走雨読 横鎌日記

無理しないランニングと気ままな読書について綴ります。横浜と鎌倉が中心。映画やお出かけもあり

「沈黙 - サイレンス -」

 マーティン・スコセッシ監督が、原作に出会って28年――。遠藤周作の名作「沈黙」が長年の月日を経て映画化された。この間、版権を持っている社からの督促はもちろん、契約不履行?での訴訟もあったとか。いずれにせよ、映画「沈黙 - サイレンス -」は完成した。早速、初日に見た。

 流れとしては、概ね原作通りではある。日本に向かった宣教師は原作では3人だったが、映画では2人。原作では日本に向かう途中で一人が倒れるので、ある程度の尺でおさめる映画ではじめから2人で向かった形にするのは「有り」だと思う。

 原作を読んでいる人が多いのであまり語る必要はなさそうだが、舞台回しは、窪塚洋介演じるキチジロー。「(神が)弱い者として生まれさせておきながら、強く生きよというのは無理無法というものだ」(セリフを一字一句憶えていないが、こんな感じ)と主題と思える部分を叫ばせるのは原作と一緒である。キチジローはキリシタンの家族の中で「踏み絵」をしてしまい生き延びる。おのれの弱さを悔いながら、逡巡を繰り返しながらも、信仰とともに生きる。

 映画では、想像だが監督の考えが反映され、原作よりも踏み込んだ場面もあるように思える。自分の中にそれぞれの「遠藤周作の沈黙」があるだろうし、解釈の度合いによっては受け入れられない場面もあるかもしれない。でも、スコセッシ監督の原作へのリスペクトは感じ取れる。なにせテーマが重いので、あまりヒットは期待できないかも知れないが…。

 映画で印象深いのは、井上筑後守の演じたイッセー尾形の演技。いわば宣教師やかくれキリシタンを「転ばせる」(棄教させる)ために、狡猾な手を使う地方の長たる人物だが、何とも言えぬ存在感を発揮している。大げさに言うと、周りを食ってしまうほどの存在感である。彼には、人のいやらしさ、ユニークさ、それでいてどこか知的でちょっとした上品さすら感じる。こんな俳優(コメディアンでもあるが)は、よその国ではなかなかお目にかかることはないだろう。

 モキチを演じた塚本晋也監督も素晴らしい。監督・主演作品もあるので、俳優としてクレジットされてもさほど違和感がないが、オーディション時に、スコセッシ監督になんでそこにいるんだ、と言われたという。機会があったら、撮影時のエピソードなどをどこかの媒体に語ってほしい。

 娯楽作品でもなく、超ヒット作品でもなく(興行はこれからだが)、一度立ち止まって人生を考えさせるような映画に属すると思う。俗的だが、次見るときは、片桐はいりや伊佐山ひろこなど、あまり表に出てこない日本人俳優を探す楽しみもありそう。