晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「スッポンの河さん」

 帯には、「この男を知らずして、野球を語るべからず‼」とある。副題は「伝説のスカウト河西俊雄」。つまり、昭和めいたニックネームの「スッポンの河さん」はスカウトの「河西俊雄」さんのこと。語る相手は減ってきているが、野球については語る方である。この人については知らなかった。阪神近鉄でスカウトとして携わった選手は驚くほど。スカウト生活40年のうち、300人ほどの入団させたというが、その中には、阪神で、遠井吾郎、安藤統夫、藤田平江夏豊、上田次朗(のちに次郎などに3度登録名変更)、山本和行中村勝広掛布雅之近鉄時代には、大石大二郎(第二朗の時期も)、金村義明、小野和義、阿波野秀幸野茂英雄中村紀洋とスター選手ぞろい。ついでに言えば、阪神川藤幸三もそうだ(ちなみに田淵幸一は別のスカウトによる)

スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄 (集英社文庫)

スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄 (集英社文庫)

 

  ドラフト1位選手やドラフト外などに焦点を当てた、野球ものや昭和ものをよく書いてきた澤宮優氏が書いた本書が、集英社で文庫化された。親本は、河出書房新社刊行の「人を見抜く 伝説のスカウト河西俊雄の生涯」。文庫のタイトル「スッポンの河さん」だと、生涯一刑事の物語のような気もするが、読み進めていくと、この題にも合点がいくようになる。

 さて、この河西さん。1920年に生まれ、2007年に亡くなっている。明治大から1946年にグレートリング(のちの南海)に入団。50年には大阪タイガース(のちの阪神)に移籍している。55年のシーズンを最後に引退。コーチを務めた後にスカウトに転身(一度コーチに復帰している)。プロ生活中には盗塁王3回、1試合6安打、6盗塁の記録もあるという。俊足の選手だった。

 河西がスカウトを始めたのは、まだ自由競争の時代。腕の見せ所であったであろう。むやみに「プロでも通じる」と持ち上げるわけでもなく、「結局は本人の努力が大事」というように地に足がついた調子だったという。入団させた選手には入団後も節目で接触し激励していたという。キラリとセンスが光る選手が好みだった。

 その後、ドラフト制度が導入され、時には大学生や社会人が逆指名する時代もあった。読売のV9に隠れていたし、いまほどFAなどの移籍も活発じゃなかったので印象になかったが、河西がいた時代の阪神は確かに生え抜きを上手に育てた。入団した選手がモノになるという意味では、いまよりも「打率」が高かった。そして阪神のスカウトを辞めた後は、近鉄から声がかかる。ここでも前述のような、選手の獲得に絡んでいる。

 解説を書いた岡崎武志氏も書いているが、藤田平をドラフトで上位指名するに至ったエピソードが面白い。他の球団は高校時代の藤田が線が細いとしてプロでは通用しないとみていたが、河西は藤田の母親の腰回りを見て、プロでも通用するような体になると確信して2位指名した。母親にはちょっと失礼な話かもしれないが、なかなかの眼力と見た。

 掛布の場合はテスト生としての入団を考えていたが、あえてドラフト6位指名。6位指名の割に、与えられた番号は31。これは河西の選手時代の背番号でもあった。今となっては確かめる術もないが、河西は期待をこめて掛布に若い番号を与えるように仕向けたのではないか。掛布も著者である澤宮氏の取材時に初めて知ることになる。

 近鉄時代の河西が逃したのは、PL学園福留孝介。河西は、中日志望の福留の意志はかたいとみていたが、チームは強引に指名。結局、福留は社会人野球に進み、その後、意中の中日に入団することになった。福留は中日入団が決まった時に、河西に電話で挨拶したそうである。福留、見直したぞ。

 結構いい話が満載。昭和のプロ野球ファンにはたまらない一冊である。