晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「日本語力と英語力」

 日本ほど英語教育で侃々諤々とやっている国はないのではないかと思う。英語に熱心なのは韓国も一緒だが、かの国は英語を学ぶということにあまり異論がない。方法論にはいろんな意見があるかもしれないが、「学ぶべき」「やるなら早期に」ということで一致しているように思える。

 日本の場合、早期英語教育に反対とか4技能云々だとか、導入時期や学習法など細部にさまざまな議論がある。けど、保護者は、韓国と一緒で、すごく期待感を持っていると思う。この本はいまから15年前に刊行されたのだが、読んでみると、小学生英語が始まってしまった(著者たちも、自分も反対の立場)という事情以外はいまでも通じる話になっているように思う。「声を出して読みたい日本語」の齊藤孝さんと、英語学習者にとっては「知る人ぞ知る」存在である斎藤兆史さんの対談集。関内駅近くの、期間限定で設けられた古本コーナーで発見。早速、近くの居酒屋でページを開いた。

  英語教育を論ずる人たちで、いわゆる文科省側に立っている人たちは、英語を学ぶのは早い方がいい、小さい時からやればペラペラになる、英語ができれば国際人や経済界の要請に応えたグローバル人材になる、といった論法でことを進めているように見える。で、やたらとコミュニケーション重視。英語の斎藤さんは、これについて、柔道で言うなら受け身の練習をせずにいきなり投げの練習から始めてしまうことだと語る。

 日本語の齊藤さんは、日本語だってちゃんと使えるようになるには訓練が必要だし、朗読によって「型」を体に覚えこませ、反復練習によって「技」に高めていくことが大事だと主張する。つまり持続性が大事だと。なかなか難しい問題なのだが、このご時勢、そこに指導者の強制力が見えてくると、「特訓」「スパルタ」というレッテルが張られる。「抵抗があるから伸びる」というが、理屈ではわかりつつ、その匙加減が上手な指導者はどれだけいるのだろうかとも思う(主張には賛成だが)。

 基本が大事というのは大いに賛成だし、小さい時は母語をしっかり勉強すべきだと思う。よく例に出されるのは、日本人が外国でのパーティーで話に加われないという話。英語力のせいで話に加われないのか、それとも話題がなくて加われないのか。そもそもパーティートークというのは日本語でも難しい。英語力うんぬんの話ではないのかも。