「献灯使」が全米図書賞の翻訳部門を受賞して以来、多和田葉子がメディアに取り上げられる数が増えてきたように見える。これまで彼女の単行本はほぼ購入してきた。消費活動的にはファンと言ってもいいだろう。そんなに熱烈かと問われればそうでもないような気がする。すべてをきっちり読んでいないからだ。でもずっと気にしてきた作家ではある。
この本を読むのは2回目。刊行直後に読んだと記憶する。形式的には2013年1月1日から4月15日までの日記だが、出版を念頭において書かれた日記形式のエッセイと見た方がいいだろうか。タイトルの通り、言葉に絡めた話題が続く。ドイツ在住だけにドイツ語にまつわる話が多い。そして、この時期は「雪の練習生」を自らドイツ語に訳していたころで、ドイツ語と日本語の間を行き来していた時期とも重なる。
多和田氏の言葉との関わり方は、言語やその意味に留まらず、字の形状や読みなどにも及ぶ。時には、ただのダジャレおばさんだが、想定しないところからボールを投げてきてハッとさせることあるので、気が抜けない。
「雪の練習生」はセルフカバーならぬ、日本語からドイツ語の自作翻訳をしているが、それまでもドイツ語で書いた作品を日本語にしたものはあったという。「変身のためのオピウム」「ボルドーの義兄」がそうで、「自分の日本語を広げ、自分の母語との馴れ合いや欺瞞を切り捨て」る試みはあったとのこと。翻訳は、翻訳対象の言語よりは翻訳する言語の方が強くないといけないのかなとの気持ちにさせられる。
外国語を学ぶのは、実際に使うためだけではない。外国語を勉強したことがなければ、母語を外から眺めることが困難になり、言語について考えようとした時にそれがなかなかできない。鏡を使わないで自分の目を見ろ、と言われたようなものだ。
なかなか含蓄のある言葉である。ただ、外国語を学ぶとしても母語を眺められるほど強固な足場を作るのは簡単ではない。外国語の海に溺れたままで、浮くのもままならない自分にはなかなかできない。
ほぼ初めて読んだように新鮮な気持ちで読めたのだが、この本を再読だという意識が残っていたのは、以前読んだ時に、勘違いしているな、と思った部分があったから。読み始めてからもなかなか思い出さなかったが、一緒に読売文学賞を受賞したヤン・ヨンヒについて、「韓国から来て日本映画を撮る」と書いてあった。彼女は日本生まれである。これもドイツ生活が長いからだろうし、そこらの勘違いはアリであろう。