副題に「ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで」とある。購入はやや勘違いから。実は、過去の名作の紹介がされていると思っていた。もちろん、そのような要素もあるが、実質的には、日本におけるノンフィクションの手法の歴史といった方がいいだろう。考えてみれば、雑誌や映像のドキュメンタリーなども含めて、ノンフィクションと言える。まあ、思い込みとは違う味だったが、それはそれで嫌いではない。
確かにノンフィクションと言っても、幅が広い。そもそもは出版社側が、フィクション、ノンフィクションと ジャンル分けをしたところからこのような言葉ができたようだ。ノンフィクションというと、何か出来事を掘り下げるイメージがあるが、自伝、旅行記、教養系や実用書だって、フィクションではない。となると、ここらも含まれていると言っていい。実際、1960年から筑摩書房が出した「世界ノンフィクション全集」のラインナップを見ると、旅行記や探検記みたいなものが多い。キュリー夫人の本とか、岩波文庫の青に分類されそうな本も多い。事実、横山源之助「日本の下層社会」も岩波文庫の青だ。作家の従軍記もそれに属するだろう。石川達三「生きている兵隊」あたりも多少の色付けはされているかもしれないが、ノンフィクション的なアプローチともいえる。
面白かったのは、週刊新潮などの週刊誌に、アンカーマンが導入されたところか。いわば、データマンがデータを集め、それをアンカーがまとめて記事にしていく形式。日本の新聞の政治部もこんな形式をとる場合がある。週刊新潮でアンカーマンを務めていたのが、草柳大蔵氏だったとは知らなかった。自分にとっては、柔和な顔をして(今考えると、地の顔はそんなにやさしそうでない)テレビのパーソナリティーをやっていた記憶しかないが、そうかこの人はライターの出身なのか。
テレビのドキュメンタリーや、大宅賞創設、沢木耕太郎氏が「一瞬の夏」で見せた「私ノンフィクション」の手法などが紹介されていく。
その後は、田中康夫「なんとなく、クリスタル」やケータイ小説までに及ぶ。確かに「なんとなく」は実在するブランドや店舗が登場する小説であったと記憶しているが、「ノンフィクション史」がここまで来るとはなあ、という感じ。著者の武田徹氏があらかじめ持っていた材料(授業や講演で準備したもの)に、意識的に近づけている気がして、やや興ざめの部分があった。
「石井光太論争」なるものがあるのも知った。彼の「遺体」という作品がどうもノンフィクションとは読めないという批判があるとのことだ。つまり創作疑惑があるということらしい。確かにテーマは強力なものが多い作家だなという漠然とした印象はあった。このへんの話題をいまごろ知るとは、ずいぶんと月刊誌、週刊誌から距離を置いているのを感じる。これは自分で読んで判断するほかあるまい。