クラシック音楽の世界最上位の一人として活躍する唯一の日本人である小澤征爾さんにとって、彼の背中をぐっと押し出す存在が山本直純さんだった。いわゆる中年以上は、テレビで彼の顔を認識しているだろう。「男はつらいよ」「8時だよ、全員集合」に、「3時のあなた」「お笑い頭の体操」、今も放映中の「ミュージックフェア」(今日も流れるのだろう)など4000曲以上を残したとされる。
個人的には、童謡の「一年生になったら」「こぶたぬきつねこ」はこの先数十年も歌い継がれるのではないかと思っている。後者は作詞も担当している。動物名をつなげただけの歌詞とも言えるが、これ以上ないようなシンプルな歌詞にあわせた、軽妙な耳に残るメロディには天賦の才を感じる。活躍の場は国内だけだったが、彼の残した音楽について海外の人はどう感じるのだろうか。日本人のツボを押さえただけにすぎないのか、今となっては判断しようがない。
山本直純さんは音楽一家に育った。そして自由学園で音楽の基礎教育を受けて、絶対音感を体得している。同い年で日本の代表的な指揮者の一人、岩城宏之さん曰く、「完全無欠な絶対音感教育の、しかももともと天才的な感覚を持っている人間」だそうである。1958年に東京藝大を卒業。その年に「私は貝になりたい」(フランキー堺主演。その後、所ジョージ、中居正広各氏主演によるリメイク)の音楽や、サッポロビールの「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」のCMソングを作曲(ビールCMは作詞も)している。緯度(北緯45度)が一緒だから、おいしいとかいう内容だったはずである。生まれていなかったけど、なんか覚えている。
破天荒な(もしくは、それっぽい)人だったので、エピソードはやたらとある。ここでは、さだまさしさんがらみのものに絞りたい。自分にとっても、そうなんだという部分があった。
二人の出会いは、77年だそうである。さださんがヴァイオリン弾きが歌い手になったことに興味を持ち、山本さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組に呼んだことがはじまりだ。どちらも鷲見三郎さんにヴァイオリンを師事したという共通点もある。1週の登場のはずが、どんどん収録して1カ月分ほど録ってしまったらしい。相当に気に入ったのだろう。その後も、さださんを振り回す。
クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」よりもはるかに長い、さださんの曲「親父の一番長い日」は山本さんの依頼だったという。「全国の親父をおいおい泣かせるような、25分の歌を書け」と。ある世代の人はご存じのように、「親父の一番…」は12分。メロディーは繰り返せば長くなるが、飽きられる。歌詞のストーリーとともにこのくらいが限界だったそうだ。中に山本さんが編曲で1分近い間奏を入れてもだ。ある音楽祭でお披露目するはずだったが、山本さん自身の交通違反で、音楽祭も辞退することになった。さださんによると奥さんの違反をかぶったものだったそうだが、山本さんがタレント扱いで、公務執行妨害などがついたために話が大きくなってしまったのだ。その後、1年半は表立った活動を自粛している。
実はNHK交響楽団の正指揮者だった岩城さんが、「山本がメディアに消費されてしまう」とN響の定期演奏会の出演をセットしていたのだが、この交通違反で話はなくなってしまった。この時、振れていたら指揮者としての評価も定まったはずだと、さださんはくやしがっている。そう思っているのは彼だけじゃないはずだ。
息子さんたちも音楽家だが、山本さんが「目線が子ども」「悪意なく迷惑をかける」などと語っている。確かに、先の紹介した童謡を聴くとそんな気になってくる。亡くなったのは2002年6月。自分は、日韓ワールドカップに夢中になっていて、山本さんの死は頭に入っていなかったなあ。遅ればせながら、その尋常じゃない音楽的才能と愛すべき(直に接するとと迷惑だったかも)人柄に合掌。