出だしは普通の話と思えるのに、着地点は予想したところとは別な場所。小説なんてみんなそんなものだろうと言われそうだが、小山田浩子さんの物語はその意味では非常に小説らしい気がする。昔、「工場」を読んだときは、安部公房みたいだなという印象が持った記憶があるが、この15篇からなる「庭」は、どこにでもいるような、うまく行っているようでそうでもないような、普通の夫婦が高い頻度で登場してくる。年齢的に、1983年生まれの筆者と重なるようだ。
「うらぎゅう」「彼岸花」「延長」「動物園の迷子」「うかつ」「叔母を訪ねる」「どじょう」「庭声」「名犬」「広い庭」「予報」「世話」「蟹」「緑菓子」「家グモ」。
300ページ足らずの本にこれだけ詰まっている。会話文が改行せずにつながっているので、ページいっぱいに字があふれている。字を眺めているだけで、小山田さんの世界に吸い込まれるようである。文芸雑誌は読まないので、どういう人か知らないが、文庫本の著者近影を見るかぎり、中小企業の庶務の人みたいな雰囲気であるが、「ちびまる子ちゃん」の野口さんのような人間的な深みを感じる。
作品を読んでいても、虫がでたり、どじょうがいたり、植物があったり、日常的な舞台に、さほど珍しくない動植物が出てくる。でも、それらに振り回されるという感じもなく、話が進んでいく。
ちょっとしたことがちょっとしたことのままで終わるのだけど、もちろん、それじゃ小説にならないのだけど、立派に小説になっているのである。不思議という言葉を使うと何か説明を拒否しているようだが、追っていくと全然不思議じゃない話なんだけど、読後感が妙に不思議なのだ。個人の感想だけど。
ただ、谷崎潤一郎「鶴唳」によせて、との副題がついた「庭声」(ていせい)は、そのオマージュと思えるが、何せ「鶴唳」を読んだことがないのでわからない。これは、ほかの作品と少し毛色が違うようだ。