晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「夜と霧」(新版)

 いまさらだが長らく読み継がれてきた本を読んだ。自分の書棚にもずいぶんと長い間埋もれていた。ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」。霜山徳爾さんが訳した旧版もどこかにあったはずだが、目に入った池田香代子さんの訳で読んだ。内容に入る前に新旧版の話に触れる。訳が古くなったので新しい翻訳者を迎えたと思っていたが、オリジナル自体に改版があったとのことだ。

 フランクルさんが「夜と霧」を出したのは1947年。改版は77年。時間が過ぎるにつれて強制収容所時代を振り返るにしても、気持ちの差が出てきたのではと池田さんは見ている。確かに、時間が経つにつれて許せることが増えたり別の視点が生じたりすることはあるだろう。旧版には「モラル」という言葉が多数出てくるのに対し、新版では二カ所だけになっている。旧版になかった「ユダヤ人」という言葉とそれに関する逸話が、新版には出てくる。旧版は読んでいないが、ナチスに対して「モラルに反する」などの記述があったのではないか。改版を書いた時には、責める気持ちに多少の変化があったように思える。新版では収容所に入れられた当事者にもかかわらず非常に冷静な筆致に感じ取れた。

 「夜と霧」というのは邦題で、原題は「心理学者、強制収容所を体験する」というものらしい。「……それでも生にしかりと言う」という本の所収だったという。「夜と霧」という邦題もなじんでいるせいもあるが、邦題もなかなかいい。著者によると、収容所生活での被収容者の心の反応は3段階に分けられるという。収容の段階、収容所生活の段階、そして出所・解放の段階だ。本の章立てもこの区切りで分けられている。

 被収容者に最初に見られるのは、「(結果的には)大丈夫だ」「うまくいく」という気持ちの恩赦妄想だそうだ。土壇場で自分は助かると空想を始めるのだ。出迎えた被収容者の血色の良さを見て、希望を持つこともあったという。しかしこの「出迎えグループ」は新たに入る収容者の手荷物にある金目の物をふんだくるグループだった。入所と同時にさっそく「分別」されて、殺された人たちもいる。何を理由に生死が分かれたのだろう。

 第二段階では、感情が消滅してくるという。自尊心を意識的に保とうとしない限りは、主体性を持つ人間であることを忘れてしまう。ここからは内容を省くが、収容所生活が終わった時に訪れたのは、精神の弛緩だと言う。「自由という言葉は、何年ものあいだ、憧れの夢のなかですっかり手垢がつき、概念として色あせてしまっていた」そうである。解放された者もやはり心のケアは必要なのだそうだ。

 初めて読んだが、また読み直す機会はそう遠くない時期にありそうだ。こんなことが二度とあってはならない。