つい、買ってしまった。アーチェリーなら五輪の時に気になることもあるが、弓となると、身近なところでは鎌倉の流鏑馬くらいか。表紙の文章を読んで、レジに持って行った。「的にあてることを考えるな、ただ弓の引き矢が離れるのを待って射あてるのだ」。そりゃ、ドイツから来たオイゲン・ヘリゲルさんは面食らったはずである。ブルース・リーの「Don't think. Feel」みたいな話だ。
1884年にドイツはリヒテナウに生まれたヘリゲルさんは、1924年に東北帝国大学に講師として来日。哲学やラテン語、ギリシャ語を教えた。滞在は5年間。阿波研造のもと、弓道の修業を積んだ。グスティ夫人は生け花を学んだとある。この本の原題は「騎士的な弓術」。帰国後の講演をまとめたものである。
そもそもは射る対象があってのもの。狩りや戦に使われる、いわば血生臭い道具である。当然、的に意識が行く。しかし、「的に当てることは考えるな」を言われる。ヘリゲルさんは当惑したのはうなづける。しかし学んだ弓術は、「目的に至る道であって、目的そのものではない」。禅問答の世界である。比較文化という観点からも非常に面白い。
合理的思考と非合理的思考の出会いというか、日本的な思考が「神秘的」と思われていた時代の話である。日本で育っているのでなんとなくはわかるが、言語化するとなると難しい。強く意識を持たずに体得したものを出していく感じだろうか。
紹介されたエピソードの一つ。阿波先生は、蚊取り線香の火がともるだけの暗い道場の中で、見えない的に向かって二本の矢を放った。一本は的の真ん中に、二本目は、その矢の筈に当たって二つに割っていたという。一本目については、30年もこの道場で稽古しているので、暗くても的の位置をわかっているかもしれないが、二本目についてはどう思うかとヘリゲルさんに言った。「…それでもまだあなたは、狙わずに中(あ)てられぬと言い張られるか。(中略)的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持になろうではありませんか」と。それからヘリゲルさんは、的に当てることを気にかけないようになった。「それはもはや自分の手中にあるのではないことを知った」とのこと。何かしらの境地に達したのだろう。小町谷操三さんによる「ヘリゲル君と弓」所収。