現時点で今年一番衝撃を受けた本である。「月刊みすず」の読書アンケートでこの本を昨年読んだ5冊の中の一つにあげる人が多かったのだが、納得してしまった。副題は「クスリとヒトの現代論」。嗜癖障害に苦しむ患者(依存症患者)と向かい合う精神科医の苦悩を書いたエッセイだ。衝撃だったのは、アルコールが脳委縮をもたらすのは知っていたが、覚せい剤ではほぼ起きないらしい。覚せい剤の方が体への悪影響はすくないのか? もちろん、筆者が酒よりも覚せい剤をすすめているわけではない。筆者も当初は「クスリ」の怖さを患者に突きつけるために「脳の萎縮」をデータで証明しようとしたところ、目論見が外れたということなのだ。
体がボロボロになるほど覚せい剤に溺れる者もいるだろう(ステレオタイプな例)。しかし、大半はアルコール依存症患者よりもずっと「健康」なのだという。依存症外来で働き始めた当時、筆者は「反則行為」ながら、アルツハイマー型認知症患者の脳画像を見せて詐欺まがいの手で「警告」したことがあったという。だが、脳がダメなら「死ぬまでやるしかない」と居直られる。クスリによる逮捕・服役歴がある患者からは「自分の体を使って臨床実験をしてきた。お前にあるのは本で学んできた知識だけだろう」などと告げられる。しかしながら「自分より知識のない医者に来ているのは、やめ方を教えてもらうためだ」と続けられる。「クスリをやめろ」程度の話なら周囲の人間だって無償でできるだろう。医者としてクスリのやめ方を提示できない自分の存在価値を疑うことになる。松本さんは、これがアディクション臨床の出発点だったと書いている。
著者が精神科医という職を選ぶと話した時、著者の父は「せめて医者になってくれ」と語ったという。彼の父は、精神科医を「医者」とみなしていなかったのだ。筆者が通った医学部でも、「内科医はなんでも知っているが何もできない。外科医はなんでもやるが何も知らない。精神科医は何も知らないし何もできない」という格言があったという。医学の世界とは無縁だが、もしかしたら通説なのかもしれない。
著者が強調していた点にハッとさせられた部分があった。依存症に対する「作り上げられた」イメージの部分である。ドラマにも描かれるが、薬物依存症の人というとどこか頬がこけて、クマができた目が妙にギラギラしている(変な目力がある)イメージがあるが、実際は傍目にはわからない。薬物経験者が体験談を語る際には、スーツ姿のようにパシッとした恰好は断られ、よれたジャージを着てくるなど、主催者に「破滅感」を要求される時があるそうなのだ。もちろん呼ぶ側からしたら、「手を出すとこんな感じになってしまう」という聴衆へのメッセージとしたいのだろう。しかし、最初に薬物を経験した人間が思うのは「拍子抜け」だそうである。もちろん一回で快楽の世界に入るものはいない。「聞いていた話と違うじゃん」という認識が深入りを促しかねないのだそうだ。そうかもしれない。このテーマ、もうちょっと知りたい。