晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「たしなみについて」

 背筋が伸びたご婦人にお説教されたような気持になった。いろいろ言われたが、そんなに気分は悪くない。むしろ気が引き締まった。白洲正子「たしなみについて」を読んでみた。本の半分を占めるのは、タイトルの「たしなみについて」。思いつくままなのか、それともどこかの媒体に掲載された文章を集めたものなのかはわからないが、57篇の文が並んでいる。他は、「新しい女性の為に」「智慧というもの」「進歩ということ」「お祈り」「創造の意味」。

 彼女の著作としては初期のもの。その後、変化があったかどうかは、これが初めて読んだ著作なのでわからないが、当時としてはモダンな考え方をする人であったと想像する(親本は1948年刊)。そして、いまなお通じるところも多い。

 自分にも関わると思ったところで、少し背中を押してもらった感じたのは以下の部分。

 飽きる、という事は悪いことですが、人間はどうしても、たとえどんな美しい物いい物と知っていても、やがて飽きてしまう性質を持っています。(中略)もし人間が飽きっぽくなかったら、成長も発達もする気づかいはありません。(中略)物に飽きるという性質は、人類にとって何よりも大切であるという事になります。(五十四)

 ある意味、多趣味とも言えるのだが、どうも続かないし、一定のレベルにまで達しないのだ。形になったものが何一つないまま、人生の後半戦に突入しているところである。しかもこの後半戦は、もしかしたらブチっと打ち切られる可能性だって無きにしもあらず。波はありながらもずっと続けてきたのは読書くらいだが、寄り道が多くて、どうも散漫である。それが楽しいとも言えるのだが、一つのジャンルに絞っていたら、専門家になれかたもしれない。

 先日、排泄物の本を読んだからかもしれないが、「涙は一種の排泄行為」(五十七)というのも心に残った。むしろ、本当に悲しいと涙も流すことできないはず。涙は悲しみの淵から人を救うものと書いている。

 「自分が弱いものである事を痛感しないかぎり、芸術家でも美術家でもありません」(同)も、その筋ではないがわかる気がする。中には、そうかなあと思う部分もあるのだが、総じて、自分に肯定感を持てる「お説教」だったと思っている。