気になっていた本だ。自分と自分の子どもを見ても、あきらかに文章の読解力や感じる力が差があると感じることが何回かあった。時代という側面もあるし、そもそも読書量が違うというあるだろう。今の子どもは本以外に目にするものや時間をとられるものが多すぎる。
そして、石井光太さんが書いた物を一度読んでみたい気持ちもあった。貧困や格差など気になる問題をテーマにしているルポライターである。
暗記重視の詰め込み教育の反省から始まった「ゆとり教育」。授業時間を減らし、思考力を育む目的だったが、おそらく授業削減の矢面に立ったのが国語なのだろう。国語力は家庭でも十分育てることができると、当時の役人たちは思ったらしい。
文科省の官僚たちは、いわば勉強ができた人たち。両親が高学歴である可能性も高く、その中で国語力が磨かれていったのだろう。そんな彼らの「経験」から、「家庭でも十分」と国語の授業時間は減らされていった。しかしながら、バブルが崩壊し両親とも働きに出ることも珍しくなくなり、国語力が家庭で育つ環境でなくなってしまった。
それでいて、ゲームだ、スマホだと人とのコミュニケーションを奪うものが世の中にはびこっている。今は必需品となっているので、簡単に奪い取ることだって難しい。コミュニケーションが苦手な子どもは一段とそのような仮想空間に身を置くようになってしまう。ゲーム依存症は、アルコール依存症の人間が常に酒のボトルを抱えているようなものだと書いてあった。スマホが生活に入り込んでいる以上、アルコール依存症の人から酒を取り上げるようなわけにはいかない。
ぞっとしてしまったエピソードが、ゲームをやっている子どもに親が「今日は勉強したしね」と声をかけたところけんかになったという部分。「今日は勉強した?」「死ね」と子ともは受け止めたらしい。抑揚や区切るところでわかるだろうと思うのだが、コミュニケーションが不足しているとそのような事が起こるらしい。さすがに自分の子どもはここまでではない。
そして、語彙が足りないのか、言葉の度合いのグラデーションがなく、すぐに「死ね」「バカ」などの短絡的な言葉に結びつく。反射的にSNSに書き込む場合には、どうもそのような単純ながらきつい言葉が飛び交う傾向が強い。場合によっては、それがいじめに、そして自死につながってしまうことだってある。
本では、国語力を育む取り組みも紹介されている。この本を読んでいると、英語やプログラミング教育などの前にやるべきことがあるだろうという気持ちになる。