晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「「最前線の映画」を読む」

 集英社インターナショナル新書から、また町山智浩氏の新刊が出た。これまで22冊刊行していて、町山氏の本はすでに2冊目となっている。1冊目の「映画と本の意外な関係!」が「目にウロコ」の要素を多数含んでいたので、この本の購入に躊躇はなかった。「意外な関係!」が連載をベースにしていたので、その続編かと思ったが(連載が季刊誌なので早すぎるとも思ったが)、この「「最前線の映画」の映画を読む」は、連載を含むものの、劇場パンフレットや書き下ろしが主である。「最前線」と謳うのは、書籍としては「短期戦」のつもりなのだろうか。ここ数年の作品が「深読み」されている。

  本の中で章立てされている20作品のうち、半数は見ている。あの場面はそうだったのか、と首肯しながら読んだ部分も少なからずあった。ここでは2作品だけ、取り上げる。ひとつは「エイリアン:コヴェナント」。TVで見たことがあったが、シリーズを劇場で見るのは初めてだった。説明はいらないかも知れないが、いわゆる「エイリアン」(1979年公開)の前日譚で、「プロメテウス」の続編。人類移住のために入植者を目的の惑星に運んでいるところ、アクシデントの後に艦長を引き継いだ者が別の惑星を移住先として調査することを指示してしまい、そこで事が起こる。

 「コヴェナント」には、マイケル・ファスベンダー一人二役が演じる同型のアンドロイドが登場する。「プロメテウス」に登場したデイヴィッド、そして、コヴェナント号に乗っているウォルター。この本を読んで遅まきながら気づかされたのは、デイヴィッドが詩をそらんじて、引用した詩人を取り違えていたこと。記憶はさだかではないが、そのときウォルターは「おやっ」という表情をしたような気がする。町山氏によると、詩の作者がバイロンではなくシェリーだったということ。アンドロイドが蓄積した知識で間違えるわけはない。ウォルターはデイヴィッドがそこで「壊れている」ことを察したわけだ。そこはわからなかった。勝手ながら、デイヴィッドの「征服欲」みたいなものが、制御されている感情みたいなものを、超えたと思ってしまった。学がないからだ。

 そして、シェリーの詩の引用にも意味があるという。内縁の妻のシェリー、「フランケンシュタイン」を書いた人で、ちなみにこちらはメアリー・シェリー。先の詩の作家は、パーシーだ。メアリーの書いた「フランケンシュタイン」は人造人間で、人に逆襲を始める。ここらはデイヴィッドと被る。フランケンシュタインの反逆のきっかけはミルトン「失楽園」を読んだから。そもそも、この「コヴェナント」も「バラダイス・ロスト」というタイトルだったらしい。このアンドロイドのやりとりには、パイロンやらミルトンやら、文学的な背景が散りばめられている。

 まったく興味のなかった「エイリアン」シリーズだったが、この「コヴェナント」の後にも前日譚3部作の締めとして、もう1作準備されているうわさもあり、この次はもうちょっと「意識的に」鑑賞したいと思っている。とはいえ、あまりにこだわっていると映画自体を楽しめないかもしれないが。

 長くなってしまったが、次は韓国映画の「哭声/コクソン」。無理やり「コヴェナント」とつなげると、リドリー・スコットつながりか。この韓国映画リドリー・スコットが権利を買ったといううわさがある。ジャパンプレミアでのトークでナ・ホンジン監督も、そのことは否定をしなかった。自分と國村隼さんがリドリー版に絡むのは否定したが。

 そして「神」の存在が共通するといえば共通する。ナ監督はクリスチャンと聞いている。そのような聖書、もしくは聖書の解釈からのメッセージが埋め込まれているように思える。

 ちなみにタイトルの哭声も韓国語読みで「コクソン」、映画の舞台も韓国の片田舎の谷城(コクソン)である。ある異邦人(國村隼)がその町に住み着いた頃から、谷城で異様な事件が続く。取りつかれたようになった人間が家族を皆殺しにして、自らも体をねじらせるようにして死んでしまうのだ。國村さんによると、脚本は「日本人」だったがあえて日本人にする必然性はなく「異邦人」にしたとのこと。でも、町の人間は、あの「日本人」が来てから事件が続くと警戒を高める。

 警察官ジョング(クァク・ドウォン)の娘もその「病気」にかかる。ジョングはその日本人が原因だと思い、「退治」を決意する――。しかしこの映画、後味が悪いというか、すべては謎のままというか、気持ちの収まりどころが見当たらないのである。どう解くべきかわからない宿題を抱えたようなどんよりとした気持ちのまま、映画館をでることになった。町山氏が、この映画をパズルにたとえ、「ピースが足りないだけでなく、どこにもはまらない」と書いたのには、この映画を表す表現としては妙に「はまった」言い回しのように思えた。