晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「『深い河』創作日記」

 「深い河」(ディープ・リバー)を読んで、もうちょっと考えを整理したいと思い、続けて読んだ。前半がそれこそ創作過程の日記。後半というか巻末が、「宗教の根本にあるもの」という対談をまとめた文章になっている。これが「深い河」で遠藤周作さんが訴えたかったことに近いのではと思っている。

 まずは「創作日記」。なかなか筆が進まない様子が書かれている。体調もすぐれない。代表作にしたい。講演活動や他の著作も進めていて忙しい。読んでいくと、やはり(成瀬)美津子を軸に話を考えていたのだなというのがわかる。愛情や宗教に対して自分には縁のないものとしてふるまっている、距離を置いたような(どこか無理やり)見下しているような女性である。ちなみに映画では秋吉久美子が演じている。

 彼女が最初にいらだちをぶつける相手になるのが、キリスト教信者で神学校に進み、神父となる大津だ(最初は、「深津」の名で構想していた)。確かに読んでいて思ったのだが、彼のぐずなところは、確かに「おバカさん」のガストンを思い起こさせる。なんか久しぶりに読みたくなってきた。

 「深い河」は、舞台をインドにしてヒンドゥー教キリスト教、日本人特有の無宗教や、昔の日本人の仏教を対峙させているようなところがある。ただ、遠藤さんにいわせると、教義とか団体とかあるけれど、宗教性と異なるとのことだ。やはり環境に左右されるとのこと。形としては違いはあるけれど、本質的な差はないのではないかと語っている。しかし、集団となると対立が起きる。ご存じだと思うが、遠藤さん自身はキリスト教カトリック信者である。

 宗教で一番大事なのは、自分を包んで生かしてくれる無意識の存在だと。宗教性と宗教は違い、宗教性は思想ではなく人間の無意識にあるもの。繰り返すが、どの宗教を選ぶかは、環境、文化、歴史的背景によるものが大きい。説かれていることはどの宗教でもほぼ同じ。同じ頂を目指して、北から登るか、南から登るかの違いしかないと語る。

 教義から入ると、それは思想になってしまうと。そして、それが無意識や意識下のものになるまでにはかなりの歳月を要すると書いている。「深い河」の大津は、フランスの神学校時代に欧州的なキリスト教の価値観を受け入れられずに異端のような扱いを受けている。彼に自分を重ね合わせているのかもしれない。

 転生や、戦争時に人肉を食べたこと、差別など「深い河」にはいろいろな「顔」がみえてくる。日記を読む分には執筆中はかなり力んでいるようにも見えたが、最終的には、どこかユーモラスな部分を作ったりと力が抜けていた気がしている。