晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「わたしの芭蕉」

 青春18きっぷで、1泊旅行をしてきた。別途料金を払えば新幹線や特急も乗れるらしいが、このきっぷ自体は普通電車用。乗り継ぎを続けているとどうしても乗車時間が長くなる。旅のお供は本。となると、本の選択に迷うことになる。これが服を選ぶよりもずっと時間がかかる。

 車窓から景色を眺めたり、ビールを飲んだ後に寝たりもするので、1泊旅行だと実際に読める本はせいぜい1冊か2冊である(ページや難易度にもよるが)。それでも迷うのだ。いろいろと考えたあげく、今回連れて行った本が、加賀乙彦「わたしの芭蕉」とドリアン助川線量計奥の細道」だった(ちなみに、予備として Kindle も持っていった)。今回の目的地は福島県郡山市。白河や須賀川飯坂温泉と、この市の周辺には芭蕉が通ったとされる記録が残っている。で、郡山に着く前に読み終えたのが「わたしの芭蕉」だ。ちなみに乗車時間はおよそ12時間(わざと遠回りをした)。

 これがなかなか面白い本で、いわば芭蕉の句の解説なのだが、その推敲の過程も見せてくれる。これは加賀さんが調査したわけではなく、「松尾芭蕉①全発句」という本が種本になっている。例えば、このような流れである。

 有名な、「閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蟬の声」は、最初は「山寺や石にしみつく蟬の声」だったとの事(同行した曾良が書き留めている)。加賀さんによると、蟬の声が石にまつわりついて、石がうるさそうに蟬の声を聞いているようだという。言われてみると、そんな気がする。素人目にも、「しみつく」というべとついた感じがイケてない。完成形が自分の中に「しみ入っている」からであろう。その後、芭蕉は「淋しさの岩にしみ込むせみの声」と、冒頭も違うが「石」が「岩」になり、「蟬」が「せみ」となっている。個人的には、「石」が「岩」になることによって、静けさや孤独さがぐんと増したような気がする。それから完成形になったそうだ。

 キリスト教をモチーフとした作品で知られる加賀さんの芭蕉愛にあふれたエッセーだった。個人的には、芭蕉のすごさはもちろんだが、日本語の豊かさ(外国語としてはハードルになるだろうけど)を再発見する本となった。ひらがなを使う事によって、柔らかさがでたり、漢字が続く事によって硬い調子になったりと、芭蕉もかなり意識的に使い分けをしていたのがわかる。文字として視覚的にも訴える言語って他にもあるのか。アルファベットなら大文字にしたりイタリックにしたり、行を替えて調子を変えたりとするくらいではないだろうか。寡聞にして日本語だけだという断言は避けるが、日本語は深いなと再確認した。

 芭蕉の名句は他にも知るところは多いけど、最初からすっと出てきたのではなく、推敲を重ねた上に形になったと知って、すこしばかり親近感を覚えた。