劇作家の平田オリザさんは、大学や教育現場でも活躍している。演劇を使った国語の授業など、芸術家として学校に行って生徒たちに身体や言葉を使ったコミュニケーション教育をしているそうだ。確かに日本では、「コミュニケーション力」といった形で一種の能力として捉えられることが多いし、新卒を採用をする企業も、学生が学んできたことよりもコミュ力(長いので省略。自分もこんな言葉は使わない)を重視する傾向が強い。2012年刊行の本だが、事情は大きく変わっていないだろう。企業が求めているコミュ力というのは、いわば「空気を読む力」を指している場合が多い。企業は表向きでは、自主性とか自分の意見を言える力を重んじるなどというお題目を唱えている場合があるが、時に矛盾していることがある。
初めて聞く言葉だが、平田さんは「ダブルバインド」(二重拘束)という言葉を使っている。二つの矛盾したコマンドが強制されている場合をいうとのことだ。簡単な例だが、さきほどの「自主性を重んじる」といいながら、面倒な事が起きると「上司に報告して進めろと言ったはずだ」と怒られる。家庭でこのようなことが頻発すると統合失調症などの原因にもなりうるとのことだ。
平田さん曰く、子どもたちのコミュ力が低下しているわけではなく、社会が要求するコミュ力がそれを上回っていて、教育のプログラムがそれについて行っていない。一番良いのは体験教育だ。となると演劇は大きな役割ができるというのだ。
この本は示唆に富むところが多い。日本語や言葉自体もそうだが、コミュニケーションのあり方など。断片的になるがいくつか紹介したい。
「対話」というのはAとBという異なる論理がすりあわせることによって、Cという新しい概念を生み出すことだという。つまり、その落としどころは一方的に片方によるのではなく、AとBの間だったり、完全に別なところだったりして、両者とも大小は別にしても最初の意見から変わることになる。ディベート(対論)もそうだが、日本人は自分の意見が変わると噓をついていたような、もしくは敗北感を持ってしまうことが多いと平田さんは書いている。「対話的な精神」とは異なる価値観を持った人と出会うことで自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のこと。話はずれるかもしれないが、SNSなどで強く「態度を表明」してしまうと、議論において余計に変化は難しいだろう。相手をやたらと攻撃する動画などは、すでに「対話」する姿勢にないと言えるかもしれないが。
あと、日本人が美しいと感じる、どこか奥ゆかしいコミュニケーションは国際社会では少数派に属するという認識も必要だという。とはいえ、少数派=ダメではない。それ故に「差別化」ができることもあるらしい。ただし、国際社会では多数派にあわせる必要がある局面が多数あるので「マナー」として学べばいいと書く。これは「同化」ではないと、平田さんは強調する。
これは自分もそんな傾向があったとみるが、日本の学校の先生はコミュニケーション教育と人格教育を混同しがちだという。どこか、先天的に持っている個人の資質ととらえている節があった。しかし、コミュ力は「スキル」で、例え饒舌にならなくとも社会を生きて行く能力を身につけさせるための教育だという。自分も、無口だった同級生が同窓会の席で上手に立ち回っているのを見て、「持っていた能力が目覚めた」と思ったが、場数を踏むことによってスキルを身につけたのかもしれない。
平田さんが鷲田清一前大阪大学総長の文の引用したのだが、面白かったのが、ダメな看護師さんは患者が「胸が痛い」と訴えると「大変、先生を呼んできます」と自分もパニック状態になる人、標準的な看護師さんは、「どこが痛いんですか」「いつからですか」と問いかける。患者受けの良いコミュ力が高い看護師は、「ああ、胸が痛いんですね」と応じるらしい。これが患者を一番安心させるとのことだ。それはいいとして、「ああ、胸が痛いんですね」の後が大事な気もするが。
他にも、付箋をつけていたところがたくさんあるのだが、読んでもらうのが一番。今更ながら、ためになった気がする。
