晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「シッダールタ」

 ヘッセは子どもの頃に「車輪の下」「デミアン」と詩集を読んでいて、10年くらい前に「車輪の下」を読み返して、ヘッセを読むのはこれが最後だろうと思っていた。このドイツ人作家については、「車輪の下」と「デミアン」の筋さえ知っておけばいいと思っていたのだが、「車輪の下」の次に読まれているのは、どうやら「クヌルプ」らしい。じゃあ、「クヌルプ」を読んで、ヘッセは「卒業」しようと書店に行って、実際に買ってしまったのが「シッダールタ」である。なぜだろう。こちらに呼ばれている気がしたのだ。2冊買っても良かったのだが。

 主人公はシッダールタ。釈迦の出家以前の名前だそうである。「目的をかなえられた」「すべてのことが成就した」という意味があるようだ。こう考えると、なかなか皮肉ともとれるタイトルと思う。ヘッセのシッダールタは心の中に欠けているピースを求めているからだ。沙門(出家して修行に専念)になることを選び、苦行を重ねるも、どこか満たされない部分があるシッダールタ。仏陀の教えも彼の腑に落ちきらない。

 今度は俗世に出る(修行は続く)。遊女カマーラに出会い愛欲にふけるが、会い続けるにはお金が必要。今度は商人と出会い、金儲けに成功する(ここらへんは落語だな)。だが、もちろんこんなことで満たされるわけがない。

 古典作品なのでネタバレはしょうがないとも思うのだが、ズバリ書くのもどこか気が引ける。身を持ち崩したシッダールタは自分に嫌気がさし川に身を投げようとして、渡し守をしているヴァズデーヴァに出会い、彼とともに働く事にする。ヴァズデーヴァは人の話を聞く達人だった。川の流れが、悟りの境地の比喩になっているかどうかは断言できないが、シッダールタは、この渡し守と川から謙虚さを取り戻していく。

 終盤に差し掛かると、刺さる言葉が連発される。「知識は伝えることができるが、知恵は伝えることができない」など。カマーラとの間にできた息子を、愛のあまりに束縛しようとするあたりは、自分に重ねるところもあった。考えさせられました。

 この小説は、前半はロマン・ロラン、後半は日本に住むいとこのW・グンデルトに捧げられている。後者はまったく知らないが、ウィキペディアによると、日本学の研究者で中国や日本の仏教を専門にしていたようだ。小説を書くに当たって助言をしたかもしれない(知らんけど)。

 ヘッセを卒業するつもりで読んだのに、手元に置いておきたい一冊となってしまった。