晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「1985年の無条件降伏 プラザ合意とバブル」

 1980年代後半に社会人になった自分にとって、「プラザ合意」は「入社試験に出る必須のキーワード」。「プラザ合意」だけは忘れない。しかし1985年には本書に書いてある通り、いろいろな事が起きた。グリコ・森永事件には新聞を連載小説のように読まされ、疑い半分で阪神の快進撃を見つめ、つくば博は遠い地域で行われている無関係のイベントと決め込み、「夕焼けニャンニャン」はテレビがなくて、周囲の話題についていけなかった。日航機の墜落はあまりに悲しい出来事だし、ロス疑惑がワイドショーを賑わせ、豊田商事のテレビカメラの前で二人組が社長宅に押し入り殺してしまったのは衝撃だった(生放送でみたわけじゃないが)。

1985年の無条件降伏 プラザ合意とバブル (光文社新書)

1985年の無条件降伏 プラザ合意とバブル (光文社新書)

 

  さて、プラザ合意に話を戻す。この「1985年の無条件降伏」を読んで、こんなにあっさりと合意に至っていたとは驚いた。ほとんど交渉というレベルではなく、日本、欧米が、その後の円高を進める「確認」のためだけに集まったように見受けられる。日本は何の条件もつけずに丸呑みしたのだ。むしろ、国際協調というか対米協調のために自ら円高容認をアピールしていく。

 1985年9月、土日と秋分の日が続き、世間は3連休のムードだったという。確かにこの頃から土曜は休むという慣習が生まれつつあったように思える。この数年後に社会人になったが、入った会社は対応が遅れていて、当時は週休二日制への移行中だった。土曜はまだ「半ドン」だった。若い人にはなじみのない言葉かもしれない。土曜のみは午前中で仕事を終えるシフトだったのだ。

 話がまたそれた。その三連休の初日、当時の竹下蔵相と澄田日銀総裁が急遽ニューヨークに向かった。竹下氏はゴルフする格好で家を出て、澄田氏も体調不良でゴルフをキャンセルする形で、二人ともG5(日米英仏独)会議へと向かう。報道陣には寝耳に水だったらしい。それまでクローズドだったのが、合意以降は積極的にマスコミ対応して、ドル高是正や市場開放をアピール。逆に円高となる日本も積極的に円高を推し進め、6月には1ドル248円だったのが、年明けには一時200円を割るくらいにまで円高が進んだ。

 しかし、想定を超えるレベルに達しても、円高は止まらない。それ以後も上がり続け、円高不況に繋がっていく。1986年の東京サミットで急激な円高による悪影響を中曽根総理がアピールしても、各国首脳はまだまだ黒字が多いと取り合わない。

 その後、日本はバブル景気を迎える。円高対策で金融緩和して、ちまたに金がだぶつき不動産や株に向かい、円高によるメリットも生じてきたのが主因だろうか。筆者によると、バブル期というのは、88年と89年の2年のみで、その後はバブルの余波だそうである。読んでいて、懐かしく思ったのが「24時間戦えますか?」をキャッチコピーにしていたリゲインのCM。矛先が今と180度違う。現在は、働き方改革の時代だ。そのCMに出演していたのが本木雅弘だったような。今は落ち着いたムードでトクホのお茶のCMに出演している。対照的ってほどではないが、CMは時代の鑑のように思える。

 バブルで思い出すのは、社会人2年目で新入社員に給料で抜かれた事だ。好景気が新社会人の給与を引き上げ、定昇・ベアを上回り、2年目になったら新入社員より給料が低くなった。一時的に調整金なるもので差を埋めることになったが、いったいどういうことかと思ったものだ。それでもいまとなっては懐かしい(それでも給料が上がるのはありがたかった)。筆者は、一万円札を振り上げてタクシーを止めたことに触れていたが(長距離狙いの乗車拒否がよくあった)、こちらはノートをタクシーチケット大に切り取り、それを振って止めようとした事もあった(営業職じゃなかったので、当時チケットは持ったことも見たこともなかった)。それでもなかなか捕まらなかったが。運良く捕まえても、運転手さんの想定距離より距離が短くて、舌打ちされたことが幾度となくあった。

 ついつい寄り道をしてしまうが、実はこの本を懐かしい想い出を確認するように読んだためだ。このバブル期のために、「日本はまだまだ元気」「もっと打っても大丈夫」もしくは「もっと打たなければ」と思われたかも知れない。いずれにせよ、バブルが弾けた後は、「失われた20年」の長期不況に入ってしまう。筆者はこの不況の発端を、プラザ合意と見ている。いまだに日本経済は立ち直ったとは言えない。となると、まだまだ引き摺っているとも言える。

 筆者は、元読売新聞記者の岡本勉氏。新聞の連載記事のようでもあり、時には柔らかい話題を振ったり、重要なところを繰り返したりと、スーッと読まされた。会社員初期の頃の事柄が整理された。やはり、当時入社試験に取り上げられるような出来事だったのだと再確認した。