晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「浪漫疾風録」

 以前、常盤新平さんの自伝的短編集「片隅の人たち」を読んで、当時の早川書房の雰囲気を垣間見たが、生島治郎さんのこの実名小説はその前日談と言えそう。「エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン(EQMM)」の編集長は、創刊直前に辞めた人をカウントするかどうか変わるが、都筑道夫さんが初代、生島さんが二代目、常盤さんが三代目となる。

 生島さん本人は、越路玄一郎ととして登場するが、他に登場する人たちは実名で、主に作家たち。早川書房のケチな社長が「ファッツ」としてあだ名で通されている。好きな詩人の田村隆一さんがイメージ通りの人物として登場するので口元が緩んでしまった。生島さんの名前はハードボイルド系の作家として知っているものの、本を読むのはこれが初めて。早川書房や実名で登場する作家たちへの興味が、著者への興味を上回った。

 越路(生島)は23歳。大学を卒業したのは1955年だ。就職が厳しい時期の上に、越路は上海からの引き揚げ者でコネもない。のちに作家に引き揚げ者が多くなるのは、組織になじまないのと同時に、自分の力を頼りにするしかなかったからと書いている。

 それまで務めていたデザインプロダクションの紹介で、早川書房が新しい雑誌を創刊するので編集部員を求めていることを知る。もちろん、受験者に加わるというだけであった。早川書房では、エラリー・クイーンが編集した雑誌の日本版を出すことになっていたのだ。越路はさほどミステリに詳しいわけでもなく、英文科出身ながら原文で読んだ経験も少なかった。しかし、部長である田村隆一さん(すでに詩人としてデビューしていた)は彼を採用することにしたのだ。理由は、親元から通えるから。つまり給料が安いからである。なんと、交通費もでない。越路の家は横浜で、早川書房は当時から神田にあった。

 給料は低い。編集系の社員たちはアルバイト原稿で穴埋めをする。自社向けに書いても、格安ながら原稿料が出たらしい。大出版社と違い、このような経験が作家として独立したり、フリーになったりする下地になったのだろう。カネのやりくりなぞ、めちゃくちゃな田村さんも作家になり、緻密だった都筑さんも独立。3年ほどで、越路がEQMMの編集長になった。

 早川書房の翻訳一辺倒から、日本人作家に広げたのが彼の功績のようだ。ミステリと言えば江戸川乱歩さんはもちろん、サントリーのPRとして「洋酒天国」を編集していた開高健さん、早稲田の学友でライバルの「筆致コックマガジン」の編集長の小林信彦さん(筆名:中原弓彦)、田中小実昌さんなどと個人的には琴線に作家が続々登場。生島さんがハードボイルド作家の道に進むまでがよくわかる。

 早川書房に就職して辞めて作家を志すまでが、この「浪漫疾風録」。作家になってからのことは「星になれるか」の書かれている。