晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「井上陽水英訳詩集」

 読みたいなと思っていた本が中古で手に入った。ロバート キャンベル(本の表記に従い、「・」(なかぐろ)は省く)さんの「井上陽水英訳詩集」。2019年刊行。出た時から気になっていたが、手に取ることなく時間が経ってしまった。300ページ近い本なので、ほぼ全曲をロバートさんが訳していると思ったが、収録しているのは50曲。かなり絞ったらしい。

 50曲の歌詞と英訳された詩が巻末の方に載っていて、それ以前は、訳すことになった経緯やロバートさんと井上さんのやりとりの部分に割かれている。言語を別の言語に完璧に移し替えることは不可能、という意味では、この部分が非常に大事。ロバートさんの訳のアプローチと、井上陽水さんの曲に対する真意ともいうべき(そんなにクリアなものじゃないけど)部分のズレが面白い。そもそも井上陽水さんの詩自体は、明確できれいな響きを持つけど、踏み込んで考えてみると謎が多い曲がある。「アジアの純真」のように言葉遊びみたいな詩もある。

 ロバートさんは、東日本大震災後に大病で入院した際に井上陽水さんの詩を英語にすることを思いついた。日本文学研究者で日本語が達者なのは、ご存じの通り。研究生として九州大学に籍を置いたこともあり、福岡出身の井上さんとはちょっとした「地縁」もある。番組で、井上さんの娘である依布サラサさん(知らなかった!)と共演して、家に呼ばれることもあったとのことだ。

 私が井上陽水の歌詞をまとめて読むのは、たぶん初めてだと思う。なんというか、日本語として定着している英語などは入り込んでくるが、全体的にきれいな日本語の羅列だと思った。近年、特に増えた英語のフレーズがまるごと入るようなことはない。人を煽るようなあまり勢いのある言葉もないような気がする。そういう部分を英語に頼っている曲も多いかな。井上さんの詩は、光る言葉やフレーズがあって、そこに時間的な動きや情景が加わり、人を物語に取り込んでいく力があると思った。

 英訳の際、ロバートさんは主語に苦心する。Iなのか、We なのか。そして、誰に向けて歌っているのか。「傘がない」は、ロバートさんはIを主語にしたタイトルを考えていたが、井上さんに聞いて、結局は「No Umbrella」としたそうである。そのような落としどころと言ってはなんだが、どのようにしてこのような訳にしたのかという話の部分が、井上さんの歌詞の解説にもなっていて、非常に読み応えがあった。

 訳す側は、はっきりさせたい。元を書いた方はなんかはっきりさせずに余白を残しておきたい。本にも書かれていた川端康成の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」にドナルド・キーンさんが本人に文章の主語はどこにあるのかと聞いたところ、「余白と言おうか、余情とでも言おうか」とあいまいさを残して、表情を豊かにする力を信じたいと話したという。読み手にゆだねた部分と言えるだろうか。日本語と英語の違いと言うよりも、送り手と受け手の違いを感じさせた一冊と言えそう。