虫明亜呂無という書き手をご存じだろうか。名前からして印象的だが、その文章も名前に負けないインパクトがある。まとまった文章を読んだのは、玉木正之さん編集の文庫本を古本で手に入れた時で、たぶん15年ほど前が最初かと思う。こんな美しい文章を書く人がいるのかと、とりわけスポーツをこのように表現できる人がいるのかと驚かされた。さしあたり、澁澤龍彦や中井英夫がスポーツ記事を書いたという感じだろうか。我ながら、安易過ぎる例えだな。
自分の結婚式にラグビーの早慶戦を見て遅れたり、仲人を務めた小林信彦さんの結婚式でも野球中継を聞いていたりと、度がこえたスポーツ好きだったらしい。しかし、スポーツのみならず、小説も書くし、エッセイや評論では、芸能や映画、漫画、競馬など幅広い分野をこなす。もっとも映画や競馬もスポーツ新聞が扱う範囲内ではあるが。
この「むしろ幻想が明快なのである」の帯には、小西康陽さんによる「かなうことなら、この人の遺した文章をすべて読み尽くしたい」との一文が書かれている。自分が思うところがそのまま書かれているようで、思わず購入してしまった。そうじゃなくても買ったはずだが。
太地喜和子さん、三田佳子さん、岩下志麻さんなどについてのエッセイがある。取材者と取材対象の俳優とは思えない距離を感じる。取材者へのリスペクトがあるという雰囲気である。虫明さんもすでに名をなしたライターとして見られていたのだろうか。
人見絹枝、円谷幸吉の評伝は必読物。おおむね知っている話のはずなのに、引き込まれてしまった。そして、この本の白眉は「芝生の上のレモン サッカーについて」だ。プロ野球が先に浸透したせいか野球はスポーツ新聞で読んできたが、後発のサッカーは文藝春秋刊「Number」などで、フリーランスによる記事をたくさん読んできた。時代の違いや書き手の特徴と言ってはそれまでだが、虫明さんの文章はひと味もふた味も違う。虫明さんの、強いサッカーチームの攻撃についてである。
そこには常に音楽がある。強弱長短のはっきりあらわれた律動がある。律動を生かしも殺しもするのが選手個人個人の素質と修練である。遠い沖合で波がおきる。波はうねりを加え、上下の高低に奇妙なアンバランスを保ちながら、押しよせてくる。右から、左から、波頭を白くたて、浜にせまり、最後に一挙にぴたりと一線上であらゆる波の力を最大のうねりと貸して、青白い牙をたてて、浜に真向から襲いかかってくる。(後略)
記者が通常のゲームリポートでこんなことを書いてたら、まちがいなくデスク(原稿を見る立場の人)にどやされるだろう。ほとんど、文芸か評論である。
(前略)荒井由実は美声の持主でもない。うまい歌手でもない。だが、彼女の歌は未完成な女、生成途上の女、傷ついてはいるだろうが、傷を気取ったり、自虐過多にならない女の感性をすなおに、明白に歌う。それがよい。小気味よい。
たぶん、今の世間はこんな文章を求めていない。彼の文に肩入れするのは、ノスタルジックな部分もあろうかと思う。しかし、この情報量が飛び交っている時代に、立ち止まって一点を掘り下げるような文が妙に新鮮なのだ。しかも名文。
1980年代前半に倒れて、1991年に亡くなった。今のサッカーやラグビーを見たら、どんな文章を遺しただろうか。この本を読んだ後、しばし想像してみた。この本の編者は高崎俊夫さん。また、虫明さんの文章を掘り起こしてほしい。
ちなみに、虫明亜呂無は本名だそうである。「虫明」という地名は岡山にあり、それに由来する姓だとか。