晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心にお出かけもあり。銭湯通いにはまっています

「人よ、寛かなれ」

 よくあることだが、本を整理していたら、金子光晴「人よ、寛(ゆるや)かなれ」が目にとまり、そのまま読み込んでしまった。「どくろ杯」「ねむれ巴里」などの自伝3部作は手放せないが、これは読んで売ってしまおうと。これが平成最後の読了本となった。

 「日々の顔」という題で西日本新聞に連載されていたエッセイを中心に編まれた本。連載期間は1973年3月から5月。そのほかは、中央公論婦人公論東京新聞などに書かれたものだ。老詩人の雑記である。今風に言えば、脱力系とでも言えようか。冬の朝のポタージュスープみたいに、それほど腹にはたまらないが、暖が取れてちょっと一服落ち着けるような文章が並んでいる。

人よ、寛かなれ (中公文庫)

人よ、寛かなれ (中公文庫)

 

  気に入ったのは「狂言のこと」。能と狂言はセットで公演されることが多い。能と比べ、狂言は「だれでもやりそうな失敗、おろかなまちがい、金銭や酒のための誘惑に勝てないで恥をかく」といった狂言のとっつきやすさをこのようにスキっと言ってくれるのはありがたい。また、国立能楽堂に行ってみようかという気持ちにさせてもらった。反面、「色気のないことが、魅力にならない原因かもしれない」とも書いている。

 もう一つ、読んでいて思わず口元が緩んでしまったのが「もぐらの皮」。もぐらの毛皮がなめらかで、ほかの生き物の毛皮を超えるものだと主張する著者。同じく詩人で、茨城に住んでいた山之口獏氏の農業を営む彼の兄がもぐらの被害に困っているという。退治がてら一儲けしてやろうと兄にけしかける。その兄も一挙両得とばかりに大賛成。しかし、20年経てども一向に金持ちにはなれず。鍬で捕まえようとするので、どうしても皮が傷んでしまうという落ち。まるで狂言である。

 その他、孫の話やら恋愛の話やら、まとまりのない話が続くが、一杯飲みながら読む分には、話の内容が散っていた方がその時々集中すればいいのでちょうどいい。酒が入ると中長編を読むような集中は維持できない。

 特段意識などしていなかったが、平成最後の日に力が抜けた、いい本が読めた。リカバリーが必要な時は、金子光晴田村隆一のエッセイを読むと頭が柔らかくなったような気がする。脚とか腕に例えれば、筋肉がついたというよりも可動域が広がったつもりになる。