晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「本は眺めたり触ったりが楽しい」

 青山南さんのエッセイ。長田弘さんの弟さんで、最後に読んだのは「60歳からの外国語修行」だったか。米国では会話にも書物にもスペイン語が頻出するので、メキシコに「留学」して学んだという体験記だった。こちらはタイトルから想像できるとおり、本に関するお話。自身や友人の体験、作品や作家の読書論などからつまみながら、読書って自由なんだよと教えてくれる。

 青山さんはどうやら読むのが遅いらしい。とはいえ、小説を楽しめる程度だろう。小説というのは一定のスピードで読んでこそ面白いとのことだ。確かに、英文解釈でぶつ切りで英語の小説なんて読むと(読まされると)、途端に面白くなくなる。名作のはずなのに。かなりのスピードで読めば面白いらしいが、それって、面白いから速く読めたと言うことではないのか。速読が自慢の人の本によると、速読とはまるで軽快なサイクリングで、文字の群れは通り過ぎるときの豊かな葉っぱの群れなのだそうだ。残念ながら、そんな境地に至ったことはない。

 シェークスピアの翻訳で有名な松岡和子さんは、デイヴィッド・ロッジの本を読んだ時、翻訳は大著なので家では翻訳本を読み、電車の中で読む時は軽いペーパーバッグで読んだとのこと。話がきちんとつながっているので、いかに翻訳がしっかりしているかの証明となったようだ。

 ある米国の批評家は、読者の仕事は著者の意図を探すことではないという。「小説がひとつのメッセージやひとつのテーマに圧縮できるのだとしたら」、そもそも作品として小説にする必要はなかっただろうというのだ。読者は、書いてあることを受け止めたり、受け止め損なったりでいいとのことである。こういうのを読むと気が楽になる。

 アナトール・フランスは、書棚を見た人に「この本棚の本をぜんぶ読んだかって? 読むわけないだろう」と答えたそうである。自分もそうだ。参考書や辞書類はともかくとして、参照用にとっておいた本以外の本はほぼ読んでいない。それこそ読んだ本から売りにだしているところでもある。全集類はなかなか処分できない。

 本が登場する本というのは結構あるもので、本がらみは結構読んでいるつもりだったが(追いつかないのはわかっている)、まだまだ楽しみはあるものだとわかっただけでうれしい。

 青山さんは存命だが、イラストを描いている阿部真理子さんは10年以上も前に亡くなっている。本の内容にぴったりのイラストで印象的だった。この人も福島県出身なのか。知らなかった。