晴走雨読 横鎌日記

気ままな読書と無理しないランニングについて綴ります。横浜と鎌倉を中心に映画やお出かけもあり。ここのところ、行動範囲が限られています

「「普通」ってなんなのかな」

 再び、自閉症について考えるために手に取った。障がいを抱えながらもオックスフォード大学院に進学したジョリー・フレミングさんの著書という形になっているが、リリック・ウィニックという人が聞き手となり、彼から聞き書きした部分が多い。

 この本の特徴は、障がいがある側から情報を提供しているところだろうか。僕はこう感じるとか、こうなると居心地が悪いとか。だけど、すべての障がい者に通じるとは言えない。でも、こんな感じなのかなとつかめた気がしている。はっきりわかるってことも大事で、突き詰めるのも大事だけど、思いをはせるというか、相手の状態を想像するってこと自体も大きな一歩になると感じた。厳密な意味では、健常者のことだって障がい者のことだって、わかりえない部分が多いはず。だいたい自分のことだってわからなくなるときがあるのに。

 米国に住むジョリーさんは5歳の時に自閉症と診断された。検査の結果がはっきりしたのがこのタイミングだっただけで兆候というべきか、症状はでていた。在宅教育が効果的だったらしい。「隣の部屋に行って、電気を消す」といったいっぺんに複数のことをこなすのが難しい。今でも、店に行って何かを買ってきてと頼んでも、その何かがあることだけを確認して戻ってくることがあるという。

 話を戻すが、在宅教育(ホームスクーリング)がジョリーさんには合っていたらしい。自分のペースで事を進められる。前に読んだ「やまゆり園事件」では、他の生徒と一緒にする形のインクルージブ教育の重要性が書かれていたが、適切なタイミングや家庭環境も重要な要素になるだろう。ジョリーさんの母親は仕事をやめて、常に一緒にいることになった。このような状況が許されない家庭もあるはず。

 一方で強みもある。関心があること以外に興味を示さない。それ以外のことはシャットアウトできるという。必要があることだけを話すし、相手を喜ばせようといった、いわば忖度めいたことは一切しない。感情よりも論理が優先されるのだ。それでコミュニケーションに問題が生じることもあると書いているし、相手の感情が読めないからこそうまく事が運ぶことがあるという。

 いろいろ書くと長くなってしまうが、自分がイメージしたのは、カメラのピントが、いわゆる健常者(定型発達者)よりも「合いすぎ」てしまうのかなという印象を持った。自分は、何かに焦点を合わせても一方で背景も目に入るが、彼らは、焦点があったものに集中しすぎるといったイメージを持った。これまた、正しいかどうかはわからない。

 ジョリーさんはいわゆる成功例なのかもしれない。でも、彼の考え方や「処世術」に触れることによって、得られることも少なくないと思った。彼は理詰めなので、演説の時は「性格を作る」ようなこともできるようになったようだ。自分では「仮面をつけているよう」と話している。興味深い。

 日本語版向けの章があり、翻訳者によるインタビューの動画もある。