作家・平野啓一郎さんによる、死刑廃止についての講演をまとめたもの。講演会は、大阪弁護士会主催。平野さんは死刑廃止派。書いている自分は死刑廃止の主張に理解を示しているが、自分が被害者側に立たされた時にそのスタンスを維持できるか自信がない。この問題についての関心はあるが、法として死刑は必要と思っている人たちを「存置派」と呼ぶのを、この本で初めて知ったレベルだ。確かに、死刑に対して「賛成派」というのは、積極的に死刑を執行しろとしているように取れてしまう。
平野さんは法学部出身。「ある男」「決壊」と法を扱った作品がある。いまでこそ死刑廃止派だが、学生時代は「存置派」に近い考えだったという。やはり心情的な側面が大きかったと話している。
人の命を奪う犯罪が起きた時に、裁判所が判決を出す際の量刑判断の一つの基準とした「永山基準」がある。1968年、19歳だった永山則夫が拳銃で4人を殺した事件で、控訴審の無期懲役を破棄して死刑判決を下した際に示した傍論が名前の由来だ。判例とまではいかないが、日本の最高裁判所が初めて示した死刑適用基準として影響力があると言われている。犯罪の性質、犯行の動機、犯行態様(残虐性など)、結果の重大性(主に被害者の数)、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状の9つが基準とされ、その後は、命を奪われた被害者が1人なら無期懲役、3人なら死刑、2人ならボーダーラインという量刑相場が形成されていったという。とはいえ、近年は犯行動機が「死刑になりたかった」という事件も目立つ。困ったものだ。
平野さんはフランス在住時に、現地の作家やアーティストと接する中で死刑廃止派としての立場を固めるようになったそうだ。EUも死刑廃止の立場である。平野さんが日本で死刑が支持され続ける理由をいくつか挙げている。
- 人権教育の失敗
- メディアの影響
- 死を持って罪を償うという文化
もう一つ、宗教的な問題もあるという。キリスト教的な世界観では、最終的には神によって裁かれることが前提になっていて、人間は最終的な審判を下す事ができないという考え。それが人間同士の「ゆるし」の根拠となっているという。日本はここまでの宗教観はなく、人が解決すべき事となっている。となると、むごい罪を犯した人間は死ぬべきという発想になってくるのだ。漫画「がきデカ」のギャグなんか、欧州ではギャグにならなかったかもしれない。例えが古すぎて申し訳ないが。日本において、遺族側の「(加害者の)死刑は望まない」ような発言は、相手を許していると受け止められかねないのだ。
加害者は死刑囚ではないが、川名壮志「謝るなら、いつでもおいで」を思い出した。「ゆるし」という意味で頭に浮かんできた。川名さんは、佐世保で起きた小6女児同級生殺害事件の遺族(被害者の父親)である。加害者の同級生は11歳。少年法すら適用されない。新聞記者でもある。怒りをどこにぶつけるか(納めるか)で苦悩したのではないだろうか。タイトル通りの内容ではある。細部は忘れてしまった部分もあるが、よく冷静に対応できると感心したものである(表面的だけだろうけど)。衝撃的な事件だっただけに、メディアに勤める人間として、世間を煽るような対応は控えていたのだと思うのだが。
平野さんの本で、より死刑廃止派側に寄ったのは確かだが、まだはっきりと態度を表明するほど自信は持てていない。